2009年11月17日火曜日

あまりに小難しい内容なので

ブログのトップに小難しい内容がずっと表示されていると気が滅入る。たぶん、小難しい人間と思われたくないからだろう。小難しい人間はへ理屈をコネて人を煙に巻こうとするし、何より見下された感じがするからいまいち好きになれない。まあコンプレックスとか言わない。

だからといって「うひょ〜なにんも考えないのよょょょょよ〜」なんて書く気にもなれない。そもそも椅子に座ってキーボードなんかをカタカタやると無意識的に考えようとしてしまう。横になったらなったで眠くなってブログなんて更新する気が失せる。外に出る気もしないし、コードを書く気もしない、なんて時はつまらないことを考えてしまう。

「つまらないこと」とは、もう一度数学を勉強し直そうだとか、腹が減ったから何を食べようとか、明日は雨が降るかなとかそんなことだ。全くもって役に立たんことこの上ない。ただし僕は生来の愚か者だからか、長く考えるということができないので、たぶん、心配ない。

2009年11月2日月曜日

多様性と複雑系について

21世紀が始まり10年が経ち、限りないレバレッジを効かす金融資本主義の綻びを見せ始め、極東の島では政権交代が叫ばれた。そんな中でも生活の基本的な部分では大きな変化も見られないまま、それぞれの生活を続けて行く。何かが変わることを望んでも結局それが実現するという実感は持てないままでいる。外部環境が変わっても根本的な問題はそのまま残り続ける。つまり僕らは何に価値観を求めれば良いのだろう。

アナログレコードが廃れCDに移り変わり僕の父親までがiPodを持ち歩く。まだ本は読まれ続けているが雑誌の売上は確実に落ち、電子ブックやケータイ小説が小さなブームとなる。複雑なエンジンを積んだ自動車も電気モーターというシンプルな作りの電気自動車に代替されて行く。蒸気機関なんて新橋にしか無い。ゲームという言葉もトランプや花札や将棋を連想するものでは無く、テレビゲームを差す言葉になった。すなわち、僕らは電気信号の中で生活をすることとなった。これらのことは何を意味するのだろうか。

これらは多様性の時代の終焉を予感させる。多様性とは個体差の中から生まれる。1952年に発売されたレスポールは使われる材木ごとに鳴りが違う。そしてそれが多様性を生んでいく。誤解を恐れずに言えばシンセサイザーに音の違いは無い。デジタル化の中でひとつの多様性の時代が終わりつつあることを感じる。デジタルの悲しみはこうしたところに現れる。僕はもう多様性の中に価値観を見いだすことができなくなりつつある。

だからといって価値観そのものを捨て去ることはできない。過ぎ去った夢を追いつづけることはできるかも知れないが、全てを平等に扱うことなんて出来ない。ネットワーク化。僕はそこに1つの救いを見出す。それぞれの音は画一的で没個性的だったとしても繋がりが生み出す価値がある。予見不可能な複雑系の中に価値観を見出す。そんなことができるかもしれない。なんてことを考える秋の夜長。