2010年11月5日金曜日
27 2 28
上昇志向も破壊衝動も孤独も躁も無自覚な優しさも全てまとめて小さなことに感じることがある。それはどんどん現実感から離れていく「要し得ない」感覚だ。この感覚は何だろうと考えていて、しばらくすると考えることに飽きて、別のことを考え始めている。考えは長くは続かない。感覚は常にそこにある。そういったことを通して僕は結構、そういう感覚を大事にしているということに気がついた。僕は四六時中、同じことなんて考えられない。放っていおいても腹は減るし、眠くはなるし、年も取る。だから28になっても、消え去るより、燃え尽きるのはまだ早い。
2010年9月15日水曜日
空の高さと地平線
空の高さを表現しようとするとき地平線があったほうが分かりやすい。ただ、空は晴れていたほうがいい。空は地平線の延長ではないから。感性や感覚を伝えようとするとき論理があったほうが分かりやすい。そしてやっぱり、感性や感覚は突き抜けていた方がいい。そんなことを思った。
時間の長さを感じようとするならモノがあったほうが分かりやすい。モノがどう変わったかで、どれだけ時間が経ったか分かるから。逆に時間の長さを感じたくなければ変わらないものを見続ければいい。思い出に浸るとかね。
スーパーマリオブラザーズが生まれて25周年だそうだ。スーパーマリオの思い出に浸れば時間を超えて懐かしい感覚が蘇る。今のゲームを見れば25年間の歳月を感じずにはいられない。そんなことを思った。
2010年8月23日月曜日
朝焼けと最近の感覚
2週間くらい前だと思う。朝方に家に帰るとき綺麗な朝焼けが出ていたので思わず写真をとった。暫く文章が書けない状態が続いているんだけれども、その分、ぼんやりと考え事をすることが増えた。ぼんやりと考えてるから、ちょっと前に何を考えていたのかなんてことはどこかに消えてしまう。難しい本を読んでみて、なんとなく分かった気になって、暫らく経つと何が書いてあったかが思い出せない。そんな感覚によく似ている。
そこでちょっと思う。消えてしまった記憶は全て無いということと同じなんだろうか。ぼんやり感じた感覚は本当に消えてしまったのだろうか。タバコの煙が空気に馴染んで透明になるように溶けていっただけなんじゃないだろうか。
ぼんやりとした感覚の中で過ごしたことは、なんとなく溶けていってしまった気がしている。この数カ月間はそんな感じだった。八王子城跡に行こうとして迷子になったり、仙台スケートパークに行ったり、インセプションを見たり、スパ4をやったり、アリエッティを見たり、横井軍平トークショーに行ったり、その間に読んだ数冊の本もあまり記憶に残っていなかったりする。
人に何かを伝えようとするとストーリーが必要で、そのストーリーは記憶につながる。例えば小学生の時の夏休みと言われて、何かを伝えられる人は、夏休みのストーリーを持っていたりする。だけど僕の中に森の中でセミの鳴き声を聞いている夏休みの瞬間がある。僕がなぜそこにいたのか分からないし、ひょっとしたら頭の中でイメージしたものが現実と重なっているだけなのかも知れないが。イメージだとしても、その中の何個かは現実だろうけどね。
まあだから記憶に残っていないと思いながらも、溶けていった瞬間と瞬間は写真の様に覚えていたりする。僕らは瞬間を伝える方法を知らないだけなのかも知れない。
2010年7月20日火曜日
2010年6月3日木曜日
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