2013年3月6日水曜日

ゼロ・ダーク・サーティを見てきたよ


そうえいばゼロ・ダーク・サーティを見てきました。友人から誘われたのですが、その後もまた別の友人から誘われました。友人の数はそんなに多くないと思っているので、僕がこういう映画が好きだと思っているのか、こういう映画が好きな友人が多いのか、その両方なのかどちらかだと思います。
ゼロ・ダーク・サーティ』(Zero Dark Thirty)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの捕獲・殺害ミッションに挑む特殊部隊を描いた2012年のアメリカ合衆国のアクションサスペンス映画である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3 

内容については「極めて不正確で誤解を与えている」との批判もあるようです。

http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPTYE8BJ03V20121220

ただ僕はこうした批判がある事自体がジャーナリスティックであり、この作品を通して貫き通している素晴らしい点だと思いました。最後に主人公が飛行機に乗った時の「沈黙」という答えが印象的でした。


(これならネタバレじゃないよね)

2013年2月27日水曜日

僕らの流動性

1週間前の2月20日にゲームクリエータの飯野賢治さんが他界されました。飯野さんとは直接面識は無いのですが、ウェブ上で幾度かコミュニケーションをとって頂く機会がありました。

初めてその存在を知ったのは、兄が、「すげぇゲームをつくる人がいるんだよ」と伝えてきたからだった。「すげぇ」のは「ゲーム」に掛かっているのか、「人」に掛かっているのか、「両方」に掛かっているのかわからなかったが、僕にとっては「両方」だった。それ以来、僕が生まれて初めて尊敬した人となり、今でも僕の中のロールモデルだ。



3年前の同じ時期に祖母も他界した。死について思う。死ぬということはどういうことなんだろう。ご本人のPOSTにもある。「いずれにせよ、よく言われるような 簡単なことではないと思っている」… たしかに。。。簡単なことではない。。。

もうひとつ、思うことはもうツィートは更新されないし、飯野さんの新作を楽しむことはできない。つまり死とは僕らのいるこの世界に対して与えられる変化が固定化することかも知れない。生きている間は僕らは流動的だ。そういうことを思っていて、寂しくなり、居ても立ってもいられなくなり、botを作ることにした。

https://twitter.com/kenjieno_bot

追記:僕より先に同様のことを考えられた方がいました
   https://twitter.com/kenjieno_words

正直なところ賛否両論はあるかも知れない。西健一さんが「作家が亡くなったって作品は生きているのだ。」と、newtonicaをフリー配信したように、僕は思う。

亡くなったとしても影響力は生きている。僕はそう思う。


2013年1月1日火曜日

2013年の目標


みなさんあけましておめでとうございます!

2012年は多くの方にお世話になりました。多くのアドバイスもいただきながら、なかなか充実した1年だったように思えます。2012のはじめに定めた目標は半分くらいしか達成できなかったですが、今まで気づかなかった課題も見つけることができました。なによりも1年間を通じて喜怒哀楽の多い年でした。つまり、楽しく過ごせました。

2013年も新しい扉を開いて行きたいと思います。
2013年の目標としては次を考えています。

・InsideとOutsideのバランスをとる

よろしくお願いいたします!

2012年12月6日木曜日

デジタル空即是色


デジタルってなんだろう?そう思ってた時、ちょうどチームラボの猪子さんの記事を目にした。僕にとってすごくよく分かる説明だった。

猪子:みんなよく言うじゃん。「アナログからデジタルへ」とか、「アナログの時代はよかった」とか、「デジタルは冷たい」とか。
デジタルって何かをまったくわかってなくて使ってるんだよね。じゃあ、デジタルって何かっていうと、「情報が物質を介在せず、単独として存在できる」ということなんだよ。
田中:物質を介在せず、ですか?
猪子:うん。情報化社会の前は、情報は物質を媒体としてたんだよ。たとえば油絵ってあるよね。人間にとって油絵は単なる情報でしかないんだけど、情報は情報として存在できなかったから、油絵の具っていう物質を媒体として存在してたわけ。 
もっとすげーわかりやすく言うと、音楽データ。レコードはアナログじゃん?

http://toyokeizai.net/articles/-/11686?page=4

僕が中高生の時、ちょうどカセットテープ、CD、MD、MP3と音楽を聞く方法が変化した。そこで起こったアナログとデジタルの変遷を経験として理解できる。これはすごい貴重なことだったななんて思う。

余談だが、耳に挟んだ(というよりポッドキャストで聞いたんだと思う)話で、ドワンゴ社内では、この変遷の時期に思春期を過ごした世代としてデジアナ世代と言ったりしてるらしい。

話を戻して「アナログ即是デジタル、デジタル即是アナログ」について説明すると、デジタル技術によって情報は物理的なものから離れることができることになったけど、「情報は直ぐに物理的なものに変わり、そしてまた情報となっていく」んじゃないかなと思ったわけです。

音楽を例にすると次のような感じ。

友だちに勧められてあるバンドの音楽を聞いてみる(アナログからデジタル)
すごい気に入ったのでバンドを深く調べていく(まだデジタル)
バンドのライブ情報を見つけたのでライブに行く(デジタルからアナログ)
ライブで友達と待ち合わせる(アナログ)

そこでウェブサービスの役割を考えると、やっぱりこの変換装置を作るところが大きな役割なんじゃないかなーと。もしくは、その一部をやるにしても、そのくらいの視野を持ちもちたいなと思ったりしました。

(おわり)



余談:たまに僕は攻殻機動隊の世界ではどうなんなんだろうと妄想したりします。世界においてもアナログというのはあるのかな、と考えたりします。

※攻殻機動隊の世界では電脳化によって脳内活動がすべて電気信号に置き換わり、人間と機械の境界が極めてあいまいになっています。そういった世界で「自我とか意識とは何か」というのが作品のテーマになっています。たぶん。

僕は、切り離されたとはいえ、デジタルとアナログは隣り合っていて、曖昧な境界もかなりあるのではないかと思っています。例えばゲームをしていて強烈をした時、その瞬間やストーリーを記憶します。それは経験といえるもので、経験は自分の体という物理的なものを介して保存されると思います。つまりアナログ。

※そう考えると遺伝子ってデジタルだなって思ったり。

さらにいうと電脳化された社会では、自分の体の認識は広がり、身体性は広くなるのではと思ったりします。例えばサイボーグとなった体であれば、そのサイボーグの部分も体と認めます。と考えると、電脳化された世界ではデジタル空間も拡張するが、それに合わせて身体性も拡張し、アナログとデジタルのバランスは保たれていくんでないかなと。

※まあそういのは虚構だと言う人もいるだろうな。

(今日もこうして無駄なことを考えて生きています)





2012年11月29日木曜日

デジタル色即是空

父から般若心経って知ってる?と聞かれた。殆どの人に興味がない内容かもしれないけど、なんとなく思ったことを書いてみることにする。いつもの様に。

一般的に般若というと「あの怖いお面」を思い浮かべるかもしれないが、Wikipediaの般若の意味を調べると下記のとおり。


般若
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
一般には智慧といい、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧をいう。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空と相応する智慧として強調されてきた。
つまり般若心経とは空の教えということ。有名な色即是空、空即是色ということばも般若心経の中の一節だったりする。ニコニコ動画にこの般若心経の現代語訳?が乗ってたので、これも面白かったので乗せておく。
(黄色のコメントが現代語訳?)



和訳の部分の解釈は色々あると思うのだけれども、やはり空をどの様に理解するのかが難しい。英訳だとemptinessとしたりしているらしい。兄はデカルトの我思う故に我在りみたいな話と似ていると思う、なんて言ったりしていた。こうやっていろいろな思考に発展していきやすいのが東洋思想の面白いところだったりする。

僕もそんなことをベースに考えていたら、ちょっと思いついたことがあった。あまりに飛んだ話ではあるなーと持っていたんだけど、人にすこし話してみたらわりと理解いただけたのでブログに書いてみる。

それは「アナログ即是デジタル、デジタル即是アナログ」という考え。

文字ヅラはあまり良くないけど、ウェブサービスについてちょっと参考になるのかなと思ったりしてます。説明すると長くなりそうなので次週に続きを書きます。

(来週の木曜に続く)