2008年3月8日土曜日

音楽の歴史

1.音楽の起源
 民俗学者クルト・ザックス
音楽の起源は言語と密接な関係にあるが、言葉をただ唱えていくような、かなり単調な旋律の流れのもの(言語起源的)と、それと対する感情のはけ口を求めるような起伏のあるもの(感情起源的)とがあり、この二つの合成によってその中間的存在である歌うように唱えるもの(旋律起源的)が発生した。

2.古代文明に見る音楽
古代における音楽をわれわれは耳にすることはできない。しかし楽器の遺物、レリーフ、絵画等の考古学的資料、伝承、文献を手がかりに、楽器や演奏の形態、音構成、音楽理論、音楽思想などを相当知ることはできる。 古代文明における音楽は、祭祀の一環として発展したと考えられる。

メソポタミア文明(紀元前3500~)
シュメル人による文明で、神殿の歌手、太鼓、体鳴楽器、リュート、リラ、ハープ、ラッパ、縦笛などが使われたと考えられる。(→バビロニア、アッシア、ペルシャへ)
エジプト文明(紀元前3000~)
 初期はシュメル人の関連が指摘されるが、紀元前2000年以降はハープ族の発達が顕著になり合奏も行われた。新大国時代にはパレスティナに勢力をのばしたこともあり、アジア系楽器が流入した。
インダス文明(紀元前2000年前後)
 謎の部分が多いインダス文明では、発見される印章や楽器などからシュメル人との交流があったことが知られる。実質的にはその後に西から侵入してきたアーリア人のもので、楽器としてはヴァーナと呼ばれた弓形ハープを中心に、ペルシャ系統のものが盛んであったことがわかる。また紀元前五世紀ごろ興った仏教においても、音楽は信仰との結びつきで考えられた。グプタ朝(4~6世紀)ではサンスクリット文学・演劇・美術にめざましい発展があり、古典音楽の基礎もこの時代に確立した。この時代以降、インド文化の東南アジアの本格的波及していく。
 中国古代(紀元前1500年頃)
 中国古代において注目されるものは、庶民の俗楽から区別される、支配階級の愛すべき音楽、雅楽である。雅楽は、中国宮廷音楽として政治の手段としても利用されたと考えられる。現在、当時の雅楽を聞くことはできないが、形を変えた雅楽が日本にも伝わっている。


古代における音楽をわれわれは耳にすることはできない。

客観的な記譜法が発展しなかったから。

音楽が未発達だったとか非文化的であったということではなく、演奏と作曲が不可分の行為だったため。

しかしながら、ヨーロッパではある時期からこうした枠組みを離れて、音楽作品を独立した存在に作り上げてきた。

3.ギリシアの音楽理論
紀元前1500年頃、ギリシア人は二次に渡って北方からギリシア半島に侵入しさらにはエーゲ海に進出した。紀元前八世紀に現在に伝わる形を形成したとされるホメーロスの二大叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイアはこのころの模様を反映させたものである。この時代の詩は音楽をつけて吟唱され、文芸を意味する語ムーシケーは同時に音楽を意味した。現代ヨーロッパ語の音楽を意味する語はこの「ムーシケー」に由来する。また抒情詩はリラの伴奏で行われたことからリュリコスのなが生じた。そして、ギリシアでも音楽は宗教行事や国家の祭式に用いられた。また、その教育的意義が強調され体育と並んで青少年の教育にとり入れられ著しく発展した。数学者ピタゴラス(紀元前582頃〜493頃)によって発明されたピタゴラス音階は現代の十二音平均律音階の元にもなっている。
そしてこの時代に一般工学技術が進歩し、鍵盤楽器が誕生した。

4.ローマ帝国の支配とキリスト教音楽
ヘレニズム世界を受け継ぎ地中海制覇したのがローマである。ローマにおいて文芸的なものはほとんどヘレニズムの亜流であっと考えられる。しかしながら、忘れてはならないのは、一方でキリスト教音楽の時代であり教会旋法(チャーチモード)によるグレゴリオ聖歌が教会の礼拝音楽として当時の音楽の中心であったということである。ギリシア時代には文字譜などが発明されて高度な文化的内容を持った歌が歌われていたと考えられるが、声楽が一定の音階やリズム等を以って音楽的に組織されたのはグレゴリオ聖歌が始めてであり、これが西洋音楽における声楽の直接の起源と考えられる。

グレゴリオ聖歌 
 グレゴリオ聖歌はローマン・カトリック教会の礼拝音楽で、単声の声楽曲であり、ローマ教会の典礼聖歌として900年ごろに完成したと言われる。ローマカトリックの典礼の大綱を決定し聖歌の集大成を行った当時の教皇グレゴリウス1世にちなんでグレゴリオ聖歌と呼ばれる。また、今日一般に使われている“ドレミファソラシ”という階名もこのグレゴリオ聖歌に由来している。その後複旋律や多旋律(ポリフォニー)の音楽が起こり当時の音楽の中心となってルネサンス時代まで続いた。

5.東方教会とイスラム世界
 西ヨーロッパがゲルマンとカトリック中心に展開する中、東ローマは独自の方向にすすみ、やがて歴史の舞台から消滅する。しかし、古典古代の遺産を継承し、ギリシア正教およびビザンツ文化によって、スラブ人に与えた影響は無視できないものがある。イスラム教においては抽象観念的な万有神の信仰であるために、偶像を認めなかったばかりだけではなく、造形美術にも具象性を与えることは少なかった。ゆえに、典礼としての音楽の発展は少なく、音楽はむしろ世俗音楽に重点があっといえるだろう。

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